ガキ大将だった彼の記憶

これから書くお話は実話に基づいたフィクションです。

僕が「いじめ」に遭ったのは小学校3年生の時でした。
当時、僕は運動が苦手で、体格も貧弱で、オマケに泣き虫な子供でした。
加えて、僕の誕生日は三月三日、ひなまつりの日だったために、地区のガキ大将格の上級生に、そのことでいろいろと囃したてられました。
「女みたいな奴」とか、
「やーい、ひなまつりー」だとか。
今から思えば全くたわいない話のような気がします。
でも小学校3年生当時の僕にとっては、それは相当な苦痛であったのも事実です。
ある日、地区ごとの集団下校の最中にそれは起こりました。
後ろからやってきた件の上級生は、僕と話していた数人の同級生に声をかけました。
「ひなまつりじゃないか。こんな女みたいな奴とは話をするな。こんな奴は置いて先に帰ろうぜ。」
そして、僕一人を残して、みんなは走り去ってしまいました。
我慢していた感情が喉元に迫り上がり、堪えられなくなって、とうとう僕は声を上げて泣き始めました。
道端に座り込んで涙をボロボロとこぼしながら喉が嗄れるほど声を上げて泣きました。
走るのが遅かったり、腕力が弱かったりするのは、この先、努力すればなんとかなるかもしれません。
でも誕生日だけは自分にはどうしようもないことでした。そしてそれがとにかく悲しかった。
自分にはどうすることもできないことで仲間はずれにされることがたとえようもなく悲しかったのです。
その日、家に帰った僕は母親の前でもう一度泣きました。
どうして僕は三月三日なんかに生まれちゃったの、と。
母親は僕の頭を優しく撫でながら、しかし、僕の予想とは全く異なる話を切り出しました。
それは、僕を「いじめ」ている件の上級生の身の上に関する話でした。
僕の中で「悪玉」のレッテル貼りが為されていたその上級生が、父親を早くに亡くし、母親に捨てられて、祖母と二人きりで生活しているということを、僕は、その時初めて知りました。
僕はその時まで自分は「被害者」だと思いこんでいました。
でも傷ついているのは自分だけではありませんでした。
彼に両親がいないこと。それは、全く、彼の責任の及ぶところではありません。
彼は自分ではどうすることもできない悲しみに、僕なんかよりもずっと長い間耐えていたはずです。
そして僕が無邪気に家族の話をしているとき、人知れず彼は傷ついていたのかもしれません。
「あの子はさびしいのね。」
僕は最後に母親にこれからどうしたらいいかを聞きました。
母親の答えはシンプルなもので、
「何をされてもニコニコ笑ってなさい。」
というものでした。
その日以来、僕はとにかく彼にニコニコと微笑むことにしました。
考えてみれば「女みたいな奴」と言われようが僕はやっぱり男の子だし、悪口を言うにしても、それを聞いてヘコむにしても、そもそも本物の女の子たちに対して大変失礼なことです。
「気持ち悪い奴。」
彼は最初とまどい気味にそう言っていましたが、母親の予想通り、なんとなく僕に対する「いじめ」はなくなっていったのです。
元々、彼が僕を拒絶していたのではなく、「悪玉」のレッテルを貼ることで、僕が彼を拒絶していたのではなかったか?そのことにようやく僕が思い至ったのは、ずいぶんと後になってのことでした。
道端で泣きじゃくったあの日から半年ほどが過ぎたある日、集団登校中に下級生の一人が急な腹痛で座り込んでしまったことがありました。
かつて僕から「悪玉」のレッテルを貼られていた彼は、僕たちに先に学校に行って先生たちに知らせるように言った後、その下級生を一人背負って登校しました。
些細なことかもしれません。でも僕にとって、その姿は紛れもない「善玉」でした。
僕がその時感じていたもの。それはある種の感動と呼んでもいいかもしれません。
他人の心の痛みに気付くこと、そして、人間が「悪玉」とか「善玉」とか単純に割り切れない歪な形をしていること、彼は僕にそれらを教えてくれたような気がするのです。

いじめによる自殺のニュースを見ていたとき、道端で泣きじゃくる幼い自分の姿と同時に彼のことが思い出されました。
ところで風の噂では、彼は祖母を看取った後、若くして死んでしまったらしいのです。
神さまは不公平だよね。
彼と今話せたならどんな話をしただろうか?彼はあの時のことを覚えていただろうか?
そんな機会が永久に失われてしまったこと、それが今は残念でなりません。