シムーン脳的true tears鑑賞法

第5話まで視聴しました。
個人的に非常に面白く見ているのですが、これ、本当に世間に受け入れられているのだろうかしらん、と、ファンとしてよけいな心配をしてみたくなったりもします。
私は西村純二監督(以下ジュンジュン監督)の作品はシムーンと、このtrue tearsしか知らないので、ジュンジュン監督の演出手法などについて色々語ってしまったりとかはあまりに無謀な行為であること明白と思われます。
が、やっぱり何か書き留めておきたくなりました。
書いてみたらすんごく長い感想ノートになってしまったので、読みたい人だけ続きを読んでください。
基本的にtrue tearsを見ている人に向けて書いたものなので、読むのにシムーンの知識は必要ありません。
でもシムーンを見た人にも、うんうん、と、うなずいてもらえればよいなぁ、と思っています。
ジュンジュン監督の演出手法を表現する言葉を、うんうん唸って考えてみたところ、次の二つの言葉が天から降ってきました。
一つ目は「引き算演出」、もう一つは「帰納的演出」。
唸って考えた割には発想が平凡すぎることに絶望(ry
もちろんこのエントリ内部でしか通用しない俺様定義の言葉なので、どこかに既に同じような言葉があったとしてもたぶん無関係です。
一応解説してみたいとおもいまする。

まず「引き算演出」について。
これは、言い換えると「あえて描かない」ということです。ただそれだけ。
たとえば、第1話で眞一郎ががっくりくずおれて酒蔵の少年に声をかけられるところとかがわかりやすいと思うのです。
比呂美との会話の後、自分のあまりのふがいなさに眞一郎は廊下にしゃがみこんでしまうわけですが、このとき眞一郎はカメラのフレームから完全に出て行ってしまいます。
実写映画で役者が勝手にフレームアウトしたりしたら、おそらく撮り直しになるのだろうと思いますが、true tearsはアニメですし、もちろん意図的な演出であるわけです。(当たり前だ。)
その意図は何か?
この場合は、
「直接描いてはいないけれど、今、フレームの外で何が起こっているかはわかるよね?」
というジュンジュン監督からの軽いジャブなのだとおもうわけです。
もっと言えば、
「この作品ではあえて(直接的には)描かなかったり説明しない部分が色々あるけどそれぞれ補完して楽しんでね」
という注意書きみたいなものではないのかと。

私のシムーン脳には時としてこのような電波が届くのです。

この「あえて描かない」演出にはベクトルの違ういくつかのものがあるように思われます。
一つは、あまり重要でない説明を省略することで、より描きたいものの描写へと集中するという方向です。
これは製作する上でのリソース配分の観点からも、作品として注力したい演出の観点からも利があると思われます。
(周囲をぼかしたようなtrue tearsの背景絵は、この方針を作画にも応用したものだと考えられます。)

たとえば第1話Bパート冒頭、全く何の説明もなく踊りの練習風景が始まりそして終了します。
しかし次のシーンの眞一郎と愛ちゃんの会話から、眞一郎は麦端踊りの花形として期待されている、だけど、眞一郎本人は別段踊りがうまいわけでもないのにやらされているだけだと思っている、という状況がわかります。
造り酒屋の一人息子である眞一郎は、麦端踊りという伝統文化を継承する役割を周囲から期待されているようです。
つまり造り酒屋の跡を継いで地元で生きていくことが既定路線としてひかれてしまっているわけです。
絵本作家になりたい眞一郎にとっては悩ましいところでしょうね。

そういう視点でもう一度踊りの練習風景のシーンを見直してみると、たしかに眞一郎は周囲の大人の身振りを盗み見ながら、みんなより少し遅れて踊りをおどっているのですね。細かい部分まで作り込んであることに驚かされます。
一方で、眞一郎がどこでどのような人々と踊りの練習をしているのか?そういった部分の設定は存在はしているでしょうが、物語の中での説明はばっさりと省略されています。
(あの建物が公民館であることは、第3話の愛ちゃんのセリフでようやくわかります。)
そういう割り切りが「引き算演出」の一つの方向なのだろうと思います。

もう一つの方向は、重要な部分であるにも関わらずあえて描かない、というものです。
こちらには二つのバリエーションがあります。

情景(キャラクターの外面)をあえて描かない。
心情(キャラクターの内面)をあえて描かない。

最初に書いた眞一郎が勝手にフレームの外に出てしまった例は、前者の「情景をあえて描かない」に相当します。
「描いてはいないけどわかるよね?」
というのがこの場合の基本的なラインだろうと思うのです。

第5話から一つピックアップすると、ミヨキチと愛ちゃんの会話シーンにそれがあります。
ここでのミヨキチのセリフも限界まで削り込まれていて面白いのですが、つまるところ、一緒に下校している眞一郎と比呂美を見かけたことを愛ちゃんに報告して、二人の仲がうまく進展した場合の将来のダブルデートの提案までしてるわけです。
この間、視聴者には愛ちゃんの後ろ姿しか描かれません。

でも、ここまでtrue tearsを見てきた人なら、どんな想いで愛ちゃんがこの話を聞いているか、それは表情が描かれていなくても、そしてそれが実際にどんな表情であったとしても、おおよそ理解できるはずなのですね。せつない。

ところで、「肝心な部分をあえて描かない」という演出はtrue tearsのそこここに見られるわけですが、この視聴者側の想像による補完作業を逆手にとった演出が第3回にあります。

麦端踊りの練習に公民館に向かう眞一郎と愛ちゃんは、近道のために神社を抜けようとするわけですが、社の裏側まできたとき、愛ちゃんは教えるつもりではなかったはずの比呂美の気持ちをついつい眞一郎に説明している自分にハッとします。
鈍感すぎる眞一郎に向き直る愛ちゃん。そこへ荷物を受け取るために顔を下げる眞一郎。
愛ちゃんの足が跳ね上がって・・・・。

ここで愛ちゃんが眞一郎にちゅーすると思った男子!手を挙げて!
あなた反省してください!(反省してます・・・。)
愛ちゃんの怒りの一撃によって、それが男にとってのみ都合の良い妄想であることを思い知らされるというナイス演出。
あれは重心ののったいいローキックだった・・・。
(もっとも眞一郎はそんなこと思ってないわけですが。)

話がそれました。

さて、もう一つのバリエーション「心情をあえて描かない」
というより「あえて内なる声に語らせない」と言い換えた方が良いのかもしれません。
主人公である眞一郎以外のキャラクターはほとんどモノローグを使用しません。
ということはtrue tearsという物語の視点は基本的に眞一郎の付近にあるということですね。
シムーンより全然わかりやすいじゃないか!(コラ

愛ちゃんについて考えてみましょう。
愛ちゃんが本当は眞一郎のことを好きであることをtrue tearsを見ている視聴者は理解していると思います。
でも愛ちゃんはこれまで一度もその気持ちをモノローグで語ったことがありません。
もちろん誰かとのダイアローグの中でその気持ちを表明したこともありません。
視聴者が愛ちゃんの気持ちを理解するのは、愛ちゃんの仕草や表情、その行動を通してです。
それはもう全力で「眞一郎が好き」な気持ちが描かれているのですね。
だから本当は「心情を描かない」のではないのです。「内なる声に語らせない」のです。
愛ちゃんはむしろわかりやすいのです。
愛ちゃんの秘めた想いは、しかし、第5回の最後の部分を見る限りそろそろ限界突破しそうな感じですね・・・。

乃絵について考えてみましょう。
乃絵はちょっとした不思議ちゃんです。
眞一郎から見て何を考えているのかわかりにくい存在なのですが、これまでのところ乃絵はとてもストレートに気持ちを言葉にしてぶつけてきます。
たとえば、第2話で、眞一郎の教室に押し掛けてきた乃絵は「私、眞一郎を見上げるのが大好き」と好意を言葉にします。嘘がない(言行が一致している)乃絵の場合には、あえて内なる声に語らせるまでもないのです。
ところが、乃絵の問題点はその気持ちをストレートに表明されたところで常人には意味不明だということなのですね。
先述の言葉が雷轟丸の後継者としての眞一郎に対するものであり、それが乃絵の心からの本心であることは、しつこいぐらいにあの赤い実「天空の食事」を眞一郎に届ける行為を描くことで表現されています。
眞一郎が戸惑うのも無理はないですよね。
しかし乃絵には真実を見抜く力が、人の気持ちを感じ取る力があります。眞一郎にもそれがわかり始めています。
二人はどこかちぐはぐな会話を重ねながらも、お互いを次第に理解しつつあるようです。
いつか眞一郎に対する乃絵の気持ちが、異性に対するそれに転化する時がくるのでしょうか?

比呂美について考えてみましょう。
比呂美は乃絵とは違った意味で眞一郎には理解が難しい存在です。眞一郎が非常に関心を持っている存在であるにも関わらず。
比呂美には眞一郎と比較して少ない量ながらモノローグによる表現が見られます。また比呂美自身による回想シーンも描かれます。
したがってtrue tearsの中では眞一郎に次ぐ準主役的な立場が与えられている今のところ唯一のキャラクターです。
第3話Bパート冒頭。子供の頃の眞一郎との思い出の回想シーンに続いて、「全部封印したの」という比呂美のモノローグが描かれます。比呂美は直接的には語っていませんが、それが眞一郎に対する想いであることはまず間違いないでしょう。
しかしこの「封印した」という比呂美のモノローグは本当に信用できるのでしょうか?
第5話。
眞一郎への期待が失望に変わったあのシーン。
失望のあまり、自分を偽ることを忘れてしまった比呂美を表現するために、モノローグとセリフで同一の内容を繰り返すという変則的な演出がなされています。
ジュンジュン監督は、比呂美の内なる声にすべてを語らせる代わりに、比呂美の矛盾した行動を描くことで、彼女が語らない想いとその深さを描くのですね。
ちなみにこのシーン、同じシーンを2度繰り返しているのではありません。
眞一郎視点で描かれていたものが、比呂美視点では描かれていない、あるいはその逆、という具合に、モノローグの存在以外の部分も作り込まれています。
細かいですね。
しかし比呂美の心はこれからどこへ向かって転がっていくのでしょうか?
本当に心配です。

さて、なぜジュンジュン監督は、かたくなまでに彼女たちの内なる声に語らせないのでしょうか?

それはジュンジュン監督の目指している演出の方向が「帰納的演出」だからなのではないか?
というのが、我がシムーン脳が異次元から受信した仮説なのです。

帰納的演出」とは何かを説明する前に、対となるべき「演繹的演出」について説明してみたいと思います。
といっても勝手に言葉を作っただけなのですが。
演繹的演出では、キャラクターの内面がまず描かれます。そして、その描かれた内面に沿う形でキャラクターの行動が描かれます。
キャラクターの行動原理が示されたあと、その原理を演繹する形で行動が描かれるために「演繹的演出」と(勝手に)呼びます。
視聴者にとっては違和感が少ない方法じゃないかと思います。

帰納的演出とは何でしょうか?
帰納的演出では、キャラクターの行動がまず描かれます。その行動の契機となるキャラクターの心情や内面は後から描かれるか、場合によっては描かれないかもしれません。
キャラクターの心情や内面は、キャタクターが起こす個々の行動の集合から帰納的に推論されるため「帰納的演出」と(勝手に)呼びます。

視聴者にとっては説明なしに行動が描かれるために、唐突な感じや違和感を覚える瞬間があるかもしれません。
またそれまでの行動の集積から視聴者が推定していたキャラクター像に反する行動が描かれることがあるかもしれません。
そしてこれらは「演繹的演出」においては演出のミスとみなされるかもしれません。
わかりやすく言い直すと、

俺の嫁はこんなことしねぇョ!!」

・・・という状態ですね。
しかし帰納的演出ではキャラクターの心情や内面は行動の集合から帰納的に導きだされるべきものなのです。
したがって、新たな事例を加えた上で修正されるべきなのは、視聴者がそれまでに推定していたキャラクターの心情や内面である、ということになります。
ただし、そこで修正されたキャラクターの心情や心のうつろいにリアリティがなければ、それはやはり演出の失敗と呼ぶべきものでしょう。
我々の現実世界はどうでしょうか?
私たちは神様になれない以上、誰かの心情や行動原理を全く客観的に一気に把握することなどできません。
誰かの言葉が、それが本心なのか、嘘なのか、そんなことも確かめようがありません。
ましてや、人間の感情はどこか一カ所に固定されているものなどではなくて、日々、うつろいゆくものなのです。
だから私たちは現実世界の中で人間関係を紡ぐとき、その誰かを理解するために、帰納的推論を日々行っているはずなのです。
その意味において「帰納的演出」は現実の営みに近い手法だといえるかもしれません。

シムーンを見た時にも似たような感想を持ってはいたのですが確信は持てませんでした。
でもtrue tearsをみていて、「やっぱそうじゃね?」と電波野郎が囁きやがります。
まこと哀れなるはシムーン脳

ところで、ジュンジュン監督は公式ブログ上で、
「物語は常に前回の物語の上に築かれてゆきます。」
と語っています。
この言葉には「帰納的演出」を前提とした場合には、単に一話完結形式ではない、というもの以上の意味を含んでいると思うのです。
新しい物語が展開されるたびに、キャラクターたちの新しい行動がリストに付け加わります。
そしてその行動の集合から、私たちはキャラクターたちの内面がどうなっているのか、気持ちがどのようにうつろったのか、それらを毎回考えてゆくわけです。
そして考えた結果が、次回の物語を見始める時点での、その視聴者なりの新しい出発地点となります。
これを面白いと思うかどうか?
面白いってば!シムーンも面白いよ!
というのが私の感想なんですけれども。
ただし、一つだけ注意点があります。
最後まで視聴したとして、そこに何らかの「正解」が提示される、ということはたぶんないのではないかな?
だけど、見返すたびにそこに新しい発見があり、それによって、それぞれの解釈もまた変化してゆく。
そして、すべてを見終えた時、生身の人間と向き合っていたのと同じような愛着をキャラクター達に抱く。(ここまでくればキミも仲間だ!)
そんなつくりをジュンジュン監督は目指しているのではないか?
そんなふうに電波が囁くのです。