シムーン感想

久しぶりに書く日記ですが、今回はアニメの話です。
シムーンというアニメが終了し結構な時間が経過しましたが、未だに
「あのアニメはいったい何だったのか?」
と、暇があれば考えてしまう自分に気がつきます。
シムーンは少女(&かつて少女だった人)たちの群像劇ですが、一般的な「男の子」的視点から見た場合、なかなか支持されにくい部分があることは感じます。
まず「努力、友情、勝利」というような少年ジャンプ的構造をもっていません。こういったキーワードに食傷気味な男子も多い昨今ですが、それでも、なすすべもなく敗戦を受け入れる宮国の物語を「敗北主義」あるいは「滅びの美学」ととらえたり、そこまで行かなくとも違和感を覚える男子は少なくない気がします。
ここで私の立場を明かすと、私は全くもって「シムーン脳」の持ち主なので、こういった構造は「滅びの美学」等の表現のためではなく、シムーンが描きたかったテーマのための必然として物語に導入されたものだし、それは成功していて、私はそれを全面的に支持する、というものです。
シムーンが描きたかったもの、そのひとつは既に多くのブログで触れられているように「少女性」の問題でしょう。
でも生まれたときから股間ビッグマグナムポークビッツを隠し持っていた身としては、「少女性」を正面切って論じるのはなかなか難しい面があります。
ですから私が「男の子」的視点からシムーンという物語を見るときには、もう少し一般化した視点、つまり「過ぎ去り変えられぬ過去と人の物語」としてのシムーンという視点まで一旦距離をおいた上で、「少女性」に関しては物語に配された「性を選択する泉」などのSF的小道具から間接的に「少女性」を理解するという感じになっています。
今書いたように、シムーンは私にとっては「過ぎ去り変えられぬ過去と人の物語」でした。
主人公アーエルの祖父は言います。
「選択を繰り返すことは可能性を消していくこと」
選択を繰り返し人は大人になります。一つの成功した選択の繰り返しは偉大な物語として語り継がれますが、その影にあるいくつもの失敗した選択は語られることなく人の心の奥にしまい込まれます。
「偉大な物語」からはこぼれ落ち、決して語られることがないはずの選択の物語は、しかし、誰もが経験する普遍的な記憶の物語でもあるのです。
中でも「少女」そして「少年」として過ごした十代は、その選択と可能性の豊かさと、それに相反する未熟さ、経験不足の故に人の記憶に深い傷痕を残します。
十代の生々しい記憶をうっかり夜中に思い出しでもしたら、私は、頭を抱えたまま二度三度もんどり打ったり、変な姿勢のままクネクネと体をねじってしまいたくなる衝動を抑えられないだろうと思います。たぶん。
ですから「少女」なんて時代の記憶はただただ「少女であること」から抜け出したかった、と姐さん達が思い起こす時、それはこの「傷跡」を無意識に避ける心の働きが幾分作用している可能性をここでは指摘しておきたいと思います。
ところでシムーンという物語の中で「回復できない思春期の傷」を象徴する人物がパライエッタであったと思います。
物語中盤、ネヴィリルを想う気持ちが空回りし、パラ様はひたすら間違った選択を繰り返します。パラ様の行動には思春期にありがちなミステイクが散見され、一見、思い当たる節がありまくりなのですが、そのあまりのイタさ故に感情移入を体が拒否するという希有なキャラクターであったと思います。(←誉めてます。)
パライエッタほど最初から最後まで報われない想いに殉じた人物はいません。
想い人のネヴィリルはアムリアからアーエルへとその愛の対象を移しますが、幼なじみのパラ様はネヴィリルにとって特別な存在ではあったものの、ついに愛の対象とはなりませんでした。
パライエッタはアーエルとネヴィリルを翠玉のリ・マージョンへと送り出します。
「違う世界」へと旅立つネヴィリルに再び会える可能性はありません。
突然の死が二人を引き裂くわけではなく、ネヴィリルは明確な意志の下に去っていってしまうのです。
ある意味これは「突然の死」よりも残酷な別れです。
実のところパラ様は本来は一刻も早く「少女」から抜け出したかった人物のはずです。
愛するネヴィリルを庇護するために泉で男を選択するのがパライエッタの理想でした。
しかし戦争のためにシビュラが必要とされる非常時、パライエッタの思うやり方でネヴィリルを護るためには、シムーンシビュラとして側にいるより他になかったのです。
パラ様の選択の、愛し方のマズさを分析することはここではしません。
大切なのはパラ様が「回復できない過去」「思い通りにならない現実」を背負いつつも、納得してネヴィリルを送り出したことにあります。
パラ様にとっての「シビュラ=少女時代」は「郷愁をさそう美しい日々」と結論するには辛すぎる日々です。
それでもパラ様はアルクス・プリーマの壁にその記憶を刻むのです。
永遠の少女」というキーワード、そして映像表現の美しさと裏腹に、シムーンが描き出したものは、実は「美しき少女時代への憧憬」のようなものではなく、「過ぎ去りし過去の持つ痛み」そのものではなかったか、と思うのです。
パラ様の苦しみは執拗に描写されなければなりませんでした。
ロードレアモンがマミーナの苦しみを本当に理解するのは、回復不可能な死のあとでなければなりませんでした。
そしてそのような「シビュラ=少女時代」をやり直すことのできない決定的に過去の出来事にするために戦争の敗北が、そして「泉」での性別選択が描かれなければなりませんでした。
永遠の少女」たちはいくらでもいます。そのへんにいくらでも転がっているループする物語の中に。永遠の高校生活の物語を読む時、私たちは安心して終わらない物語と「永遠の少女」たちとの邂逅を楽しむのです。
しかしシビュラ達は「泉」に行き性を選択しました。
シムーンという物語はもう戻ることができないのです。
あのとき、われわれ視聴者が味わったある種の喪失感。
それは物語の中の彼女たちが味わったはずの感覚の何十分の一であるにせよ、その感覚を共有するために制作者が仕掛けた罠でした。
そこへ向けて物語を収斂させ、その仕掛けが見事に成功したことを私は認めたいと思います。



読み返してみると、どうみてもパライエッタ派です。本当にありが(ry
萌え視点でのお気に入りはドミヌーラ(マニアックだな、をい)なのですが、シムーンのテーマのことを考えるとどうしてもパラ様のことが頭をよぎります。
でもご腐人がたのご所望はこういう視点ではなくて、同性愛的な部分(あぬぐら)を男性視聴者がどう感じたか?ってコトかもしれませんね。
(追記)
はてなトラックバックの仕組みを未だ理解していなかった。orz
おずおずと手を挙げてみる。→id:kotoko:20061018